パラグラフ
パラグラフというのは、内容的に関連のある複数の文(センテンス)の集まりで、それによって一つの考えを表現するものである。
良いパラグラフを作るためには、「電脳式」に限らず、一般的に次の点に注意しなければならない。
一つのパラグラフには、内容的には一つの話題(トピック)だけを書くべきであるべきである。
二つ以上の話題(トピック)を一つのパラグラフに書いてはならない。
逆に、同じ事柄についての話が続いているのに、改行して別のパラグラフにすることも、してはならない。
そのパラグラフにおける話題(トピック)についての中心的な考えは、一つの文(センテンス)によってまとめられるべきである。
これを「トピックセンテンス」と呼ぶ。
そのトピックセンテンスは、考えを端的に表現するものであるのが望ましい。
多くの場合、一つのパラグラフは、トピックセンテンスと、それを支えるいくつかの文から成る。
トピックセンテンス以外の文は、トピックセンテンスで表現したそのパラグラフにおける中心的な考えを、より具体的に説明するものでなければならない。
トピックセンテンスと関係のない余計な文を書いてはならないということである。
なお、一つの文(センテンス)のみで一つのパラグラフを形成する場合もあるが、これは、例外的なことである。もしそういうパラグラフを作ってしまったら、本当にそれでよいか、よく吟味してみる必要がある。
トピックセンテンスは、パラグラフの冒頭にあると読みやすい。
従来の日本語の文章においては、大事なこと、結論めいたことは、段落(パラグラフ)の最後に置かれていることが多かった。
確かに、我々の自然な発想で文章を書いてゆくと、そのようになりがちである。
しかし、今後、論理的な文章を書く場合には、原則的にはパラグラフの第一文にトピックセンテンスを置くように心がけたい。
論旨を把握するには確かにその方が都合がよく、また、執筆する場合も、その方が、論の構造を自覚しやすいからである。
アウトラインプロセッサ(エディタなどのアウトライン機能)を用いて論を組み立てている場合、パラグラフは、そのアウトラインの延長線上に出来上がってくる。
アウトラインプロセッサでは、いろいろな考えや資料を、見出しを付けて書き留めてゆく。
その考え、あるいは資料の一まとまりごとが、だいたい一つのパラグラフを成す。
時には、執筆段階になってから、アウトライン上の一まとまりが、実はもう少しいくつかの概念に分割すべきであることに気づくこともあるが、多くの場合は、アウトライン作成時の考えや資料の1単位が、そのままパラグラフに相当する。
たとえば、次の例は、「オーガイ」のアウトライン機能を用いて書いた原稿である。
実際に出来上がった原稿は、次のようなものである。
一、二つの自叙伝
宗良親王は、二つの歌集を編んだ。言うまでもなく、李花集と新葉集である。家集と准勅撰集であるから、歌集としての性格のちがいはあるが、いずれも、自叙伝的な性格を有していると見ることができる。
李花集は四季・恋・雑に部立されているから、その所収歌九一一首は編年的に並べられているわけではない。しかし、詠作事情を詳しく記した詞書を持つ歌が多く、また、その年時を示す例も多いところから、同集を読む者は、おのずとその人生の跡をたどることとなる。
一方、新葉集は准勅撰集であり(本来は私撰集として撰集が開始された)、もちろん親王の歌だけから成っているわけではない。しかし、他の中世の勅撰集の例からすれば、非常識なほどに自らの和歌を多く入集させている。名前を明示しての入集は九十九首で、後村上天皇より一首少ない集中二位の歌数。さらに「読人不知」として、多くの自歌を入集させている。読人不知の歌は九十八首あるが、おそらくは九十四首までが宗良の歌と推測され、名前を明示したものと「読人不知」としたものとを合計すれば、百九十三首にも上る。それは、新葉集の入集歌の約一三・六%を占める。また撰者であるところから、みずからの意図を、その撰歌や歌の配列によって、歌集に反映させることもできた。こうした事情により、新葉集の場合も、同集を読む者は、その中にしばしば親王の人生を読みとることとなる。
李花集所収の和歌と新葉集のそれとは重なるところが多い。新葉集の入集歌百九十三首のうち九十八首までが李花集との共通歌である。しかし、別の見方をすれば、宗良親王の新葉集所収歌のうち、半数近くが独自の歌だということでもある。新葉集独自の歌は、主として元弘年間(一三三一〜一三三三)と天授年間(一三七五〜一三八〇)に集中する。李花集に天授年間の歌がないのは、李花集の成立が天授以前と推定されているから、当然のことであると言えよう。それに対して、元弘年間(一三三一〜一三三三)の歌が収められていないことについては、その理由は自明とは言いがたい。
いったいなぜ宗良親王は、新葉集には元弘元年(一三三一)以来の歌を収め、李花集には延元元年(一三三六)以後の歌しか収めなかったのであろうか。二つの歌集に自叙伝的側面があるとすれば、どの時期の歌をもってみずからの詠作の歴史を開始しているかということは、宗良が自らの人生をどのようにとらえているかを示すものとして注目されよう。
以下、二つの歌集における最上限の歌に着目し、それぞれの編纂意図を考えることにより、宗良のみずからの人生の把握の仕方を探ってみたい。
「宗良親王−二つの自叙伝−」(『解釈と鑑賞』)
|
これは、このようなアウトラインから発展してまとめられている。
←目次へ
|