モノとしての本  

「モノ」としての本


街の書店・図書館の本棚を眺める

 街の書店や図書館の本棚を、ただ眺めることを薦めたい。自分の研究に関連のありそうな本の並んでいる本棚の前に立ち、その背表紙をじっくり眺めてみるのである。もちろん、そこに並んでいる本を手に取って、ぱらぱらと頁を繰ってみてもかまわない。必要と思われる本は、その場で購入するなり、借り出すなりしても良い。ただし、大事なのは、本棚に並んでいる「モノ」としての本を眺めることである。


テキストとデータの間

 文学研究は、デジタルなデータを扱うだけでは研究として完結しにくいのではないか。どこかの段階で、手で触れることのできる「モノ」としてのテキストに帰っていかないと、文学研究になり得ない気がする。

 ただし、これは、専攻分野に特有の問題であるかもしれない。中世和歌関係のものは、電子化されていないのはもちろんのこと、活字化すらされていないものがまだまだ多い。つまり、この分野は、「モノ」としてのテキストをどうとらえ、扱うかというレベルにおいていまださまざまな問題が残っているのである。
 それゆえに、デジタルなテキストで研究を進めていても、どこかの段階で「モノ」に帰ってゆかないと、どうしても研究として完結しないように思われるのである。

 あるいは、そのことは、専攻分野にかかわりなく、文学研究一般に言えることかもしれない。
 文学作品も、ある段階ではデータとして断片化して見てみることが、その作品理解のために有効であるのにちがいないが、それで事足りることはないのではないか。どうしても、もう一度文脈を持ったものとしての「テキスト」にたちかえって、それをとらえることが必要なのだと思う。

 その場合、テキストの形態としては、「本」がもっともふさわしいと考えられる。
 吉田健一のセリフに、「文学とは何か、つまりは本である」というのがあるそうであるが、これは真実を突いていると思う。
 書籍の形態のテキストは必要不可欠であると思うのである。

 また、可読性という問題がある。ブラウン管や液晶のモニターと紙に印刷した文字と比べた場合、その読みやすさは桁違いに従来の紙にインクで文字を示す形の方がよい。

 結局、「本」の必要性はなくならない。


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