知るを教へ知らぬは問ひてもろともに
学の道をわくるたのしさ
を載せ、発行の辞、桑原副会長の祝辞につづき、論説に教監細川潤次郎の「皇学の科目」、教授黒木千尋の「カントの観念論」と筆陣を張り、更に雑録、詞藻、神宮記事、学館記事、会報をあげ附録に前年度修学旅行記事をつけた。連合軍総司令部の発した神道指令に基づいて、昭和21年3月神宮皇學館大學は、廃学を余儀なくされた。これより昭和37年2月、皇學館大学の設立が許可されるまでの16年間は、大学再興を目指す館友会の苦闘の時代であった。母館の解消という事態に当面した館友会は、新たな構想で再出発するほかない。そのためにまず必要としたのは会員名簿の整理であった。館友会をどう運営してゆくかという問題はさらに困難であった。財団法人とすべき議も出て、館友以外にも広く協力を得ようとした。そんなとき館友神職の間でも再建を目指す動きが進んでおり、それらと合体して、昭和26年8月、五十鈴会が設立された。五十鈴会として学館再興という主目的を達成するために積極的に活動を展開したのが、この後の10 余年の期間であった。母館の再興に熱願を傾けた五十鈴会は、昭和37年8月12日、200名の会員が新しい皇學館大学の校舎に集まり、感激の慰霊祭及び全国大会を開いた。その後会名を「館友会」という旧名に復し、事務所を皇學館大学に移した。さらに昭和41年より館友会は、大学院及び短期大学が発足したので、これを機に会名を「皇學館館友会」として今日に至るが、平成5年、明治26年より数え、ちょうど館友会100周年を迎え、御幸道路沿いに建つ伊勢学舎の校門は記念事業の一つとして館友会が寄贈したものである。